日本の部活動というものを諸外国のスポーツ活動と比較したときに大きく異なるところはたくさんあります。
そもそも所属チームが学校単位で形成されているその体系化を説明すること自体がなかなか面倒で、そしてそれを知った外国人はたいてい驚きます。
東アジアのいくつかの国もこの部活動という組織形態、構造を持っているという話ですが、いずれにしても世界的に見たら少数派です。
部活動の数多くある特異性の中で、今回私が伝えたいのは拘束時間を含めた、選手に対する「制限」についてです。
そもそも厳格な校則を用いるタイプの学校が、個人の判断、選択の余地を無条件で狭めようとしている時点で、私には教育の「サボり」の要素が多分に透けて見えます。
以前までの記事で何度か触れている電車のマナー広告の姿勢のような、自分の判断で他者を慮ったり、自分の意志で他者に注意、お願いできない日本人のための「私たち(鉄道会社は)一応(広告で)言うことは言ってますよ」的なアリバイ感、ポーズ感に似たものが透けて見えます。
校則の厳しい学校が保護者世代の一定の割合からまだまだ支持があることから分かるとおり、これらは学校教育の在り方にのみ問題があるわけではありません。
私的には主にメディアの、と思ってはいるものの、いずれにしろ社会全体の問題です。
ちなみに私はここまで「現場の現実を知らないくせに」という批判を分かったうえで書いています。
私も全くの部外者というわけでもないのですが、このまま「まず理想論」の文脈で進めていきます。
この校則の厳しさに通じるところでもあるのですが、部活動の大きな特徴に、正確に言えば学校での授業時間も含めて「拘束時間がやたらと長い」というものがあります。
私は日本以外での居住経験は6か国1地域しかないので世界の事情を全て知っているわけではありませんが、それでも小学生から高校生まで、それら7か所のどこよりも日本の学生の下校時間は遅いということを学んでいます。
ひるがえって、例えばイングランドではセミプロのユース世代の練習が週休3~4日もあったり、プレミアリーグのユースカテゴリーでもU16までは週休2日、もう少し年齢が上がると週休は日本のほとんどの部活動と同じ週休1日になるところも多いものの、その練習自体を午前中に行うなどして、それを学校が公休扱いにするサポートの姿勢があります。
ブラジルに関しては(私の体験上20年以上前の古い話になりますが)、ブラジル選手権3部リーグ程度の小規模クラブですら13歳以上はほぼ全員寮生活をして(全てのカテゴリーで地元出身者は一人だけ)午前と午後に練習をしていました。
よって、どの年齢までが教育を受ける義務があったかは定かではないですが、希望する者は寮から徒歩3分の夜間学校へ通っており、そうでないものは夕食後に十分なリフレッシュの時間が取れました。
学校に通っていた選手たちも午前と午後の練習の間には十分な自由時間を持てていました。
日本でも多くのJクラブが特定の高校と契約を結び、クラブでの活動がある場合は公欠扱いにするなどの対応はありますが、日本の中学高校全てが足並みをそろえて土曜日に公式戦を行うために毎週公欠扱いにしてもらっているという話は聞いたことがありません。
同様にナイターを使わない時間に練習ができるように、つまり日が落ちたらすぐに帰れるように、授業を途中で抜けて部活を始めることを認めている学校も、体育課などの一部の例外を除いて聞いたことがありません。
この授業時間と部活動の時間との拘束で若者の自由時間を奪うことが、日本のティーンエージャーの低犯罪率の保持に一役買っているという教育業界の本音は知っています。
2011年トッテナムから始まったイギリス暴動の最中、私は厳戒態勢のロンドンに住んでいましたが、その混乱に乗じて建物に放火する者や店舗の窓を破り家電製品等を略奪する者、通行人を襲い金品を奪う者などの半分以上が18歳未満であったことも知っています。
そのときに読んだ新聞の関連記事で、トッテナムのあるロンドン北部地区の若者の犯罪率のみならず女子学生の中絶率が他と比べて特別高いことも学びました。
別件ですがロンドン滞在当時、犯罪多発地区に住んでいた私は路上強盗に遭ったこともあります。
またブラジル時代には銃口を向けられたこともあります。
このような経験もあって、自由(な時間)を上手く扱うことのできない世代に自由を与えることの怖さを私は重々承知ではありますが、それでも部活動に勤しむ日本の学生たちの下校時刻をもっと早めてほしいと思っているのには理由があります。
以前、目標達成に関する記事でも少し触れましたが、私は選手たちを集めて目標達成率を上げるための座学会をしばしば開きます。
座学というと講師が壇上で受講者に向かってレクチャーする風景をイメージしやすいですが、そのようなスタイルを取るのは土台の部分、計画表の立て方や日誌やデイリーチェックの書き方などを伝えるための年度初めの数回のみで、以降は“座”学という名のとおり私も選手も輪になって座って、選手が回し役になってその週に学んだことを他の選手たちに伝えていく、というお喋りの場のように展開します。
おかげで良い習慣のつくり方や睡眠のとり方など、私自身も選手から教わったことがたくさんあります。
この、選手が選手に教える、というスタイルはなかなか上手くいったもので、私が話しているときは音声録音やノートなども使ってしっかりと聞き役だけに徹していた選手も、選手が教え役になると話を途中で遮ってまで質問や意見を発します。
ここからお喋りに近い形になっていき、その時間を利用して私は選手たちが一週間つけてきた(日誌の)タイムログなどをチェックするのですが、ここでいつも選手たちの学習する時間や自己を振り返る時間が圧倒的に足りない、ということを感じています。
体育科のある学校や遠征が公欠扱いになる強豪校などはいざ知らず、一般的な普通科の高校生は授業と部活の時間、それと通学でほぼ全て一日の時間が埋まってしまいます。
食事と入浴と睡眠を除いたら一日数時間しか自由な時間を持てず、受験生ならそこに勉強時間が充てられます。
そして多くの生徒が睡眠時間を削ります。
そこに自己の行動を振り返ったり新しい情報や考えを取り入れるために勉強するための時間が入り込む余地はありません。
ほとんどの学生は同じ条件だ、時間の使い方が上手いか下手かの問題だ、と言えばそれまでですが、私は日本国内での比較を言っているのではありません。
この、決められたこと(あるいは予定調和のような、ほぼ暗黙の了解のような、無言の圧力のようなこと)を決められた時間こなしていく、教育現場が学生に課すタスクスタイルは、決められた期日に決められた量を生産しなくてはいけない、そして作れば作った分売れる工業化時代には適した教育法かもしれません。
が、現代は情報化時代です。
売れる仕組みそのものを作れるようなタイプの人材がより必要になってきた時代です。
自己検証による振り返りや新しい学習は、プロデュースの中でも最初に行うべきものでもあり基本でもあり、そして最も難しく面白くもあるセルフプロデュースであります。
この時間すら取れない、どころか治安を優先させるがためにその機会をあえて失くそうとしているかのように見える学校カリキュラムの在り方を私は好めないでいるのです。
今回の情勢下における自粛期間中に自分自身の物事に対する取り組み方を見直した選手が私の教え子の中にもいました。
17.18歳の少年です。
「何となく日々追われるように、中途半端な気持ちでサッカーをやっていていいのか」
と考えたそうです。
もともと真面目ではあったものの上手さはあるのに強さが無い、怖さが無いタイプの選手だった彼は、自粛期間開けの練習再開後、意識して激しいプレーを選択するようになりました。
局所的で小さな一例ではありますが、時間を与えられたおかげで普段考えないことを考えるようになった、振る舞いを変えた、という話は今回の情勢下で世界中に何十億とあったのではないでしょうか。
もちろんその裏には同じくらいの数のネガティブな例もあることでしょう。
私はポジティブな方ばかりにスポットライトを当てて物事の公平さを欠くような感想へと誘導することは好みません。
がしかし、その“ネガティブ”も誰目線の“ネガティブ”なのかをしっかりと見極める必要がありますし、何といっても、繰り返しになりますが合理化と厳格化による対応で便利さを求めることなく、サボることもなく、いちいち個人の最大限の幸福を求めるのが教育のあるべき姿であることを考えると、やはり子どものうちから(日本では子ども扱いされている年齢のうちから)本人の「自発自主成長時間」的なものを与えた方が健康的な気がするのです。
「理想論」、「きれいごと」という言葉を用いて反対する人たちが一定の割合で存在することは心得ています。
一方でそれら反対派が「理想論」には理想があるし、「きれいごと」はきれいなものであるということを無視しがちなことも心得ています。
この私の態度には、怖い体験をしておきながら「のど元過ぎれば」のごとく私自身がすっかりそれらの恐怖を忘れて平和ボケしてしまっているところからくることも否定できません。
とはいえ、私は「たかだか一個人の主張が世の中を変えられるわけないだろう」などと後ろ向きにはならないで、事あるごとにこの手の話を、説教臭くならない程度に主張し続けています。