日本人に合った指導法に関して述べたついでに、今回、日本人に合ったサッカースタイルについても考察してみましょう。
これは観戦者目線の話でもあります。
今から20年近く前、日本サッカーは一時期(少なくともメディアを通してくみ取れる日本サッカー界の傾向に)メキシコ流のサッカーを目指そうとしていたことがありました。
それの元となった理由はメキシコ人は日本人同様体が小さいのにワールドカップでベスト16の常連だから、くらいのものでした。
この体のサイズはあくまでチームの平均身長を指していたものであり、体重の考察は無かったように記憶しています。
身体を語る上で身長だけでなく体重や筋量を考慮することはおろか、その運動性能も比較しなくてはいけません。
他書でも述べましたが日本人の骨格はそもそも走りながらボールを蹴ることに不向きな可能性もあると私は考えています。
メキシコを追おうとした理由に、他には「持久力に優れているから」というのも確かあったでしょうか。
身長と合わせてこの2点が主な動機でした。
その後、これらの事実はなかったようにその時代ごとのA代表の監督の目指すサッカーを日本全体が模倣しがちな時を経て、それに飽きが来たころ、バルサとスペイン代表の世界的な成功とその中身の魅力に日本も憧れて、ポゼッションサッカーとそうじゃないサッカーの対立の時期を迎えます。
当然、日本人はポゼッションサッカーを好み、以降その流行りのピークが過ぎてもこの流れは現在に至るまで脈々と受け継がれてきているわけですが、そもそもスペイン代表やバルセロナを模倣しようとした(実際に模倣した)動機に、ここでもまた「体の小さい日本人にもできる」という洞察があります。
身長がそうでも体重が、とかここでは言うつもりはありません。
今回「日本人に合ったサッカー」と銘打って投げかけたかった問題は日本人の何に合っているのか、という疑問です。
仮に身長も体重も運動機能もほぼバルサの選手と一緒、ということがこの先の日本代表に訪れたとしてもこれはあくまで数値化、可視化できる分野の話でしかありません。
つまりこのサイズやこの運動性能の個体とその集団にはこのスタイルのプレーが効率的、という、なんだが生産性だけを求めた、穿った見方をすれば「勝った者が偉い」の経済至上主義の一般社会の態度と似ています。
ガワの要素だけを物事の判断材料にするこの態度は「論理上正しいことは文句を言わずにやりなさい」という無機的で温度のない寂しさを感じます。と言ったら大げさでしょうか。
それでは何をもって「日本人らしい」と言えるのか。
「仏作って魂入れず」の「魂」に当たる部分を反映させたサッカーが、“日本人らしいと言えるサッカー”である可能性を私はほのめかしています。
魂とまで言うと少し野暮ったいかもしれません。
が、要は体格などを考慮した利便性や生産性よりも、サッカーを表現する選手たち自身の、だけでなく観戦者をも含めた日本サッカーの関係者全ての「気質」を考慮しての「日本サッカーはこうあるべきだ」と主張する指導者がもう少しいてもいいのではないか、という気がします。
このことを指導する側は考えなくてはいけません。
とは言うものの、最初に断っておきますが、これに対して自信のある答を私自身が未だ持てていません。
前回の記事で「歴史的」、「宗教的」、「地理的背景」という言葉を使いましたが、これらに鑑みた我々日本人というものは(長くなるので根拠は割愛しますが)我慢強い民族だ、つまり国民性という観点から見た場合、守備的なサッカーこそが正しい答えである可能性がある、という意見を聞いたことがあります。
私自身は日本人は周りの反応を気にはするが世界的に見ても短気な民族(主張しないだけで神経質な民族)だと思っている部分もあるので、この意見には100%賛成はできませんが、非常に興味深いと思っています。
パスサッカーも否定、守備サッカーも否定、否定ばっかりじゃなくて代案を出せよ、と言われてしまいそうですが、自信のある答を未だ持てていないと言ったものの、実は聞こえはアホっぽいものの半分くらい真面目に考えている日本サッカーのアイデンティティに関する自論のようなものを私は持ちかけています。
それはドリブルを普通よりも多めに戦術に取り入れたサッカーです。
(変な日本語ですが)その根拠の発端は「キャプテン翼」にあります。
Jリーグ元年を10代以上の年齢で迎えた多くのサッカー人はプロ、アマ、ファン問わず、この漫画の影響を受けています。
そしてこの漫画の象徴と言えば、虎とか鷲とかハヤブサとか出てくる破壊力抜群のシュートや、オン・ザ・グラウンドのボールを推定インステップかトーキックで鬼のように縦回転をかけるシュートでもなければ、空飛ぶ双子のファンタジーや、グレートスパーゴールキーパーの帽子だけでなくほとんどの選手のスパイクがまるで広告塔のようにアディダスであることでもありません。
やたらと怪我人が出ることでもなければ、殺人タックル部隊のような教育的に良くない場面がちょくちょく出てくることでもありません。
「キャプつば」世代の方はご存じであるとおり、この漫画の特徴はやたらとボールを持つことです。ドリブルが長いということです。
この漫画は私自身には小学生、中学生時代がリアルタイムでしたが、数年前に見たバラエティ番組で「スペインではボールを持ちすぎの選手に実況が『ツバサ』と表現してそのプレーを揶揄する(したことがある)」ということを聞いたことがあります。
日本のジュニア世代の指導者には未だに「技術が優れている=ドリブル技術が優れている」だと思っている、と言ったら少し言いすぎですが、止める蹴る以上にドリブルの重要性を説きその練習に時間を割いている指導者は多くいます。
(ちなみに私からしたら止める蹴るの次に重要なのはターンです。ドリブルはターンの一種類、の連続です)
私はこのジュニア世代でのドリブル万歳の風潮をおおよそ否定的に捉えていますが、この責任を全て「キャプつば」の作者の高橋陽一先生に押し付けるつもりはありません。
キャプつばが盛り上がりを見せていたのと同時期、メキシコワールドカップでマラドーナが5人抜きをしたこともその後の日本サッカーの発展を遅らせる要因になったことでしょう。
と、私はこれらドリブルサッカーをまるで否定するかのように語っていますが、世代的に優先する順序というものを間違えずにバランスよく育て欲しいと思っているだけで、キャプテン翼のような漫画的サッカーは現実味を帯びないにしても、一般的な戦術の平均よりも多めにドリブルを組み込んだサッカーは日本サッカーのアイデンティティーになり得ると思っています。
発端は80年代のスポーツ漫画とマラドーナの5人抜きという何ともアホらしいものですが、Jリーグ発足から30年近い間のメディアの態度を見ているとどうやら彼らに視聴者を育てよう、目を肥やさせようという熱意は無いということが推測されるので、この際、永遠のサッカー0歳児になりそうな8割方の日本代表ファンにウケのいい、ドリブルでいっぱい相手をかわすサッカーを目指してみてはどうか、という、自分で言うのもなんですがなかなかまともな提案です。
世界のトレンドを考慮しても10年ほど前はドリブルを要求されがちな場所は主に角(最前線、最ワイド)だけだったのが、メッシの活躍のみならず、ここ6,7年の間にビルドアップ時のMFやCBにまでドリブルを標準フォーマットとして組み込む監督も増えてきました。
そして幸い我が国には日本独自や大陸から伝わった武道の教えを継承されてきたという土壌があります。
東洋の武道、武術と言えば何といっても解剖学的に理にかなった体の使い方の上手さです。
我々一般人もこの分野のマスターたちに教えを請いやすいという地理的、言語的条件下にいます。
身体能力的にクリスチャーノ・ロナウドのような選手を生み出すことは難しくとも、脳みそ的にシャビやイニエスタのような選手を育てるのは難しくとも、体の使い方的にアザールのような選手を育てるのは意外とはかない夢ではないかもしれません。(もちろん4選手ともその他の多くの面でも優れていますが)
と言うと、今この瞬間もイニエスタのように戦術的判断の正確性と早さに長け、かつそれを遂行できるスキルを持った選手を育てようと努力している指導者たちに反感を買ってしまいそうですが、以前の記事でも伝えたとおり心技体習慣の優先順位で心(脳)は体の次です。
本音を言えばあれもこれも全部必要なのですが、限られた時間の中で我々は優先順位をつけて日々の指導に当たらなければいけない、というのは再三申し上げているとおりです。
身体の使い方のトレーニングに時間を割かないにしても、どうでしょう、ドリブルで運ぶことを多めに組み込んだ戦術。
そのためにはターンのスキル向上も含めて、前を向いた状態でボールを持つことをデザインしないといけませんが。