指導者というもの

 

 

 

私はよく道端や公共の交通機関などで倒れている人、あるいは今まさに人が倒れこんだという瞬間に出くわします。

パッと思い出せるだけで10件近くあります。

国内外を問わずです。

 

胸を押さえて苦しんでいる人に水を飲ませたり、倒れている見知らぬ人の見知らぬ車を探してその中から車椅子を運んだり、友人の支えだけでは電車から降りられそうにない人を手伝ったり、といった状況に繋がる場面などです。

 

中にはヘルメットを被ったまま車道ではなく歩道でバイクと共に倒れている男性を見かけたこともありました。

そのとき運転中だった私は事故だと思って急いで車を降りて助けに行くと

「いやあ、気持ちいいんで寝ているだけです」

とのこと。

 

いや、これはおそらく頭を打っておかしなことを言っているだけではないか、と考えられたのでしつこく「本当に事故ってない?」と確認しても「本当に寝てるだけ」を繰り返されるだけです。

念のためバイクや本人の衣服、ヘルメットに傷が無いことを確認して自分の車に戻ると、車道に停めた私の車のせいでできていた小さな渋滞のその1台目、つまり私の車の後ろの車の運転手から「単独(の事故)ですか」と、やや私に疑いをかけた感じのある質問をされました。

 

本当に「寝ているだけ」なら(実際、本当に寝ているだけだと判断をしたからその場を去ったわけですが)実にいい迷惑です。

 

このような、日常とは少し違った感じのイレギュラーにぶつかる頻度が40代半ばという私の年齢から考えると少し多いような気がします。

 

コンタクトスポーツの指導者という職業柄、救急車を呼ぶ機会が一般の方より多いというのは理解できるものの、私が公共の場で出会う倒れている人たちは当然見知らぬただの他人です。

これにはやはり指導者という職業柄、違和感を見つける癖が普段からついているせいで、困っている人を見つけやすい、そして手伝いやすいということも因果関係としてはあるかもしれません。

以前に伝えたポストの話と同じ種類の理屈です。

 

さて、このような癖がやはり関係しているのか「困っている人」とは別に、私はよく旅先で見知らぬ人に声をかけられます。

特にご年配の方からです。

 

高校の指導では中間・期末試験の期間に、大学や海外での指導ではシーズンオフにまとまった休みを取りやすい、何ともありがたい職に就いている私は、特に日本にいるときには小旅行と称して友人訪問に出かけます。

 

社会人時代の度重なる転勤生活のおかげで西日本に何人かの元部下を持つ私は、ありがたいことに未だに彼らの何人かと交流が続いていて、頼まれてもいないのにちょいちょい彼らの顔を拝みに行くのですが、その中で一度同年代の元部下とこんな話をしたことがあります。

 

彼を訪問したのは一週間近くあったその旅程の最後の方でした。

 

「ここに来るまでに宮崎と福岡にも寄ったんだけどね。やたらとおじさんおばさんに声をかけられるのよ。これって体質?」

「いや、僕もですよ。これってあれちゃいます?僕らくらいの30代40代がちょうど50代60代とかそれより上とかのおじいちゃんおばあちゃんからしたら話しかけやすいんちゃいます?」

「なんで?」

「20代くらいの若い子はまだまだお年寄りを邪険に扱う子もいるじゃないすか。かといって僕らよりも上の年代の、おっちゃんらからしたら同世代になると話しかけづらいんかな、て。てなわけで優しく扱ってくれる僕ら世代がおっちゃんらの話し相手にちょうどいいんちゃいます?」

「ああ、そういうことか」

「もうこれは我々世代の役割みたいなもんでしょ」

 

このように、京都育ち岡山在住のこの元部下への訪問時に彼から説かれたわけですが、なるほど、宮崎のパワースポットで雲海を見ながら地元のおじさんに政治や戦争の話を語られたのも、福岡のデートスポットで地元のおばさんにパート先の愚痴を延々とこぼされたことも、岡山の山奥の風情溢れる野外温泉で、神戸から来たというおじさんにかつての彼の旅先のグアムの射撃場で慣らし抜きで44口径をぶっ放した中国人がショットの反動で鼻を潰したという笑い話の聞き手に回る羽目になったのも、これはもう、我々世代の義務のようなものなのでしょう。

 

と、年齢や世代の役割がいざなう状況については納得したとして、いつかの記事でも触れたように、私は路上強盗や詐欺(これに関しては2回)、(たぶん)詐欺未遂、及び「銃口を向けられる」を経験しています。

 

「(たぶん)詐欺未遂」の一軒を除いて、加害者は全て私と同世代か年下と思われる人物です。

 

直接は関係ないもののロンドンではルームメイトが警察沙汰の事件を起こして真夜中に自宅をガサ入れされたこともあります。

日本では空き巣被害に遭ったこともあります。

 

所用で訪れた台湾では、幸か不幸か現地で知り合った美女と夜の街を手をつなぎながら、しかし“輩”から走って逃走する、という経験をしたこともあります

 

これは世代的な特徴、役割とは別物で私自身の警戒心の薄さ、注意不足など、だらしないパーソナリティーに原因を見つけるようなネガティブな決着をつけることもできますが、もう少し解釈を拡大して前向きに言わせてらえるならば、初めてのことに興味を持つ積極性や、面倒なことを受け入れようとするおせっかいさが災いしているとも言えます。

 

そしてこの2つの特徴は、皆さんお気づきのとおり、指導者が備えやすい特徴でもあります。

 

特に「おせっかい」に関しては、肩書上の指導者や教育者だけでなく、例えば企業における上司の部下に対する接し方や新人教育における態度は(もちろん対象によって程度は変わるものの)「ちょっとおせっかい」くらいがちょうどいい、という指導や教育の場面におけるあるあるを思い浮かべてみれば分かりやすいのではないでしょうか。

 

考えてみればきちんとした報酬が出る私のような外部コーチと違って、ほぼボランティアに近いレベルの手当てで部活での指導に勤しむ教職員の方々は、このおせっかいキャラの典型とも言えます。

 

つまり選手の「面倒を見る」を好んでする(学校によっては半強制的にやらされているとこともあることでしょうが)、面倒見を「面倒くさい」と思っていない、実にありがたい存在なのです。

 

「教える側」に回ると「やる側」としての能力は落ちる、ということを私はかつて先輩指導者から聞かされたことがありました。

有段者であった彼は空手の世界のことを言っていましたが、闘争心などの観点から見た場合、これには頷けるものがあります。

 

が、技術的、戦術的観点からサッカーという競技を見た場合、教えることによって理解が進み、自分自身がプレーするときも、教え子に教えたことを忠実に守りやすい、つまりいいプレーをしやすい、という感想を持つ指導者兼プレーヤーも数多く存在します。

 

私自身も指導を始めた最初の1、2年目までは社会人リーグでプレーもしていましたが、同じ感想を持ちました。

 

そしてプレーのこと以上に「教え子に教えていること」を意識しやすいのは道徳的なことです。生活態度にまつわるあれこれです。

 

常日頃から周りを見る癖付けをしましょう。

困っている人があったら助けましょう。

 

まだまだ自然にスッと体が反応しない私のようなタイプは、例えば急いでいるときの運転中などに倒れている人を見つけた場面では

「見ちまったもんはなあ」

とブレーキを踏むまでに1秒ほどの迷いが出てしまいますが、このわずか1秒ほどの短い時間の間に

「教え子に見られたらどうしよう」

という考えが上手いこと無意識下で“サボり”や“ビビり”の抑制になっているのではないかと思っています。

 

好奇心やおせっかい心が導く面倒や厄介に、おそらく私の同僚たちも数多く出くわしているのではないか勝手に想像していますが、果たして彼らも私のように旅先で年配の方々に話しかけられることが多いのか、あるいは美女と夜の街を手をつないで何かから逃げた経験があるかについてもぜひ聞いてみたいところです。

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