目標達成のツール⑧ -先回りの力- (全9回)

 

 

目標達成のツール -書く理由-
目標達成のツール -目標設定のしかた-
目標達成のツール -期限とルート-
目標達成のツール -行動の仕分け-
目標達成のツール -自己分析-
目標達成のツール -セルフモチベーティング-
目標達成のツール -自己肯定感と行動の罠-

 

前回までの記事で、目標達成に有効なツールのつくり方や使い方、個人に合わせたアプローチにより組織の体質を強める方法など、大事なところは大まかですが全て伝えました。

 

今回は詳細な話になります。

これは私自身が日誌をつけているうえで最も重要視していて、なおかつ最も書くのに労力がいる項目に関する話です。

 

私は毎年、クラブに入団した新メンバーがクラブ活動に慣れてきたころを見計らって、彼らにサッカーノートを書き続ける重要性を説きます。

ノートと筆記用具を持参して集まる座学タイプのミーティングでのことです。

 

このサッカーノートの呼び方はそれこそ日誌でも日報でも構わないのですが「日記」にしてはいけないことだけ伝えます。

(日記そのものが良くないという意味ではなく「日誌」のようにフォーマットが決められていて自分に対する働きかけ(問いかけ)ができるタイプものを書くようにしてほしいということです。日記の効力は認めているので、日誌と別に書く分には何も問題ありません。)

 

さて、ここで毎年選手に投げかけている質問に

「そもそも何でサッカーノートを書くの?」

というものがあります。

 

前回までに何度か述べたように「書く」ことの理由は目標達成のためですが、ここではもう少し具体的な答えを要求します。

「書くことのメリットって何だろう?」

という問いに変えることもあります。

 

「コーチが話した戦術をきちんと覚えられる」

「その日やった練習を振り返ることができる」

「自分がどれくらい、何の自主練をしたのか可視化できる」

 

色々な意見が出ますが、基本的には「起こったことを記す」という点で共通するものが挙がります。

 

今の学校教育の授業の有様がどのようなものかは知りませんが、工業化時代の申し子「氷河期世代」どっぷりの私の年代の授業風景は、教師が教科書に書いてあること説明する、それを黒板に書く、そしてそれを生徒が写す、というものでした。

 

今あえて字面にしたことで、なかなかのシュールさというか、写すなら教師は要らないじゃん、そもそも教科書に書いてあるなら写さなくていいじゃん、というツッコミどころにあらためて気づいてしまいます。

 

おそらくは世界的に見ても屈指の、(少なくとも授業における)教師の存在理由が「監視」以外には見つかりづらい、非効率でつまらない授業スタイルだとは思うのですが、教育における洗脳(この言葉が強すぎるように感じるなら「癖付け」でも構いません)というものは侮れません。

というのも私自身がイングランドやアイルランドで指導者講習に参加したときに、タイトルとアウトラインしか書いていないテキストを元に講師の話やグループワークで講習は展開され、ノートは気になったところのメモ書き程度にしか活用しない、何ならビデオや写真撮影、録音等で講師のレクチャーを記録する「授業スタイル」の不慣れさに、自分自身も日本の非効率授業スタイルに安心感を持っていることに気づかされた経験があるからです。

 

この手の民族が「サッカーノート」にかかわらず「書く」ことの理由やメリットに「過去(起こったこと)」の記録を挙げがちになるのは当たり前かもしれません。

教育の“賜物”というやつです。

 

と、こういう表現をすると、その授業スタイルをネガティブに捉えている感が出てしまいますが、そうではありません。

以前の記事で「より多くの人間の幸福を考慮しないと狭角的な利益に結実する」と述べた意味合いのことだけではなく、今回のテーマ「書く」云々に関してだけでも、前回の記事でもすでに述べているとおり「書く」という習慣によって手に入れられる(手に入れたい)ものに問題の抽出(発見)能力というものがあります。

 

基本的に問題というものは過去に起きて今現在に繋がっているものを指します。

それが未来に起こるであろうものであってもその推測の元となっているものは過去に起きて(今に繋がって)いるものです。

 

その抽出、発見作業はやはり過去を一旦振り返ることになります。

 

というわけで私は過去の記録自体をネガティブに考えているわけではないのですが、最重要視はしていません。

 

それではサッカーノートによって選手たちにどんな習慣を身につけてほしいのか。

それを私は3つの話を用いて選手たちにいつも諭させています。

 

「実は俺って、念力使えるって知ってた?」

唐突ですが出だしはこんな感じです。選手たちの薄ら笑いからのスタートが大半ですが、たまに真面目な選手が7割方本気にして聞いています。

 

「この試合勝たせたいなあ、とか終了までにあと1点取らせたいなあ、とか思ったときに念力でそうすることができるんだよ。ほら、この前の試合もそうだったろ?」

「あ、ほんとだー」

基本的に素直な子が多いので、あるいは指導者に気を遣ってくれる選手が多いので一定の割合でこの手の反応があります。

 

「どれくらい念力が強いかってのを測るのにね、おみくじをよく引くのね、おみくじ。寺社仏閣の。おみくじ引いたことある人どれくらいいる?」

全員が手を上げます。

 

「海外から友人が来るときはやっぱり日本の寺社仏閣に連れてくと喜ばれるし。

日本人と行くことも、一人で行くこともあるけど。

 

で、そこでしょっちゅうおみくじを引くんだけどね、無宗教のくせに。

調子がいい年は一年で3回おみくじ引いて3回とも大吉だったってこともあったり、別の年だけど同じ日に二つの神社でそれぞれ大吉出したこともあったりとかね。

同じコとのデートで二度目の寺社参拝でおみくじで大吉出して『この前も大吉だったじゃん。何で?』って驚かれたり。

 

どう、すごいだろ?」

素直でかわいい我が教え子たちはウンウン頷いてくれます。

超理屈な私自身は「観光やデートで行くようなスポットは人気取りのために大吉を多めに入れてある」くらいのひどい邪推をしていますが、選手には伝えません。

 

「ところがだ。そんな念力使いの俺でも5、6回連続で、しかも一度も大吉を出せていない寺があったのよ。浅草寺。浅草の。行ったことある?

あそこの神様全然俺に媚びてくれないの。

 

で、その5、6回目、その当時の彼女と夜のデートで行ったんだけど、おみくじ引いてまた大吉が出なくて。で、ちょっと考えたの。

ホントはそもそも割合的に大吉が少ないんじゃないかって。

 

ところでおみくじにも色んなタイプがあるけど、浅草寺は引き出しタイプなんだよね。

分かる?なんか六角形だったか八角形の筒をガラガラ振って逆さにして棒が一本だけ出てきて。で、その棒に書かれてある番号の引き出しを引くやつ。

 

でまあ、20年近くも前のことだから時効ってことで言うけど、そのとき夜だったし周りに人も少なかったし、割合を確かめてみたの。大吉の。えーと、おみくじって全部でいくつあるんだ?大吉、中吉、吉、凶、大凶・・・あとは?」

「小吉」

「末吉」

「半吉」

「え、何それ?聞いたことない」

と選手たちと会話しながらそろそろまとめにかかります。

 

「まあ、大体7つくらいだな。ホントに7分の1の割合でちゃんと大吉が入っているのか100個近くだったか100個以上だったかの引き出しを1番から全部開けてみたの。みんなは真似するなよ。で、そのとき一緒にいた彼女にね、何番が大吉だったかを覚えてもらって、俺は数だけ数えて。
そしたら割合は決して悪くなかったのよ」

ここらで私が念力を使えないことは証明されてしまいましたがもう少し頑張ります。

 

「で、ここで気づいたのよ。『大吉が出ますように』って思っているから大吉が出ないんだって。で、その日は残念ながら100円玉がもう無かったから諦めて帰って。

だってお金も払わずにおみくじ引くようなズルはしたくないじゃん。ズルは良くないじゃん」

引き出しを全部開けたズルは棚に上げておきます。

 

「で、2、3週間後にまた浅草に行く用事があったから、今度は一人だったんだけどね。もう一回トライしてみたの。

当時スマホとかない時代だから、俺がきちんとメモしてなかったのかな、それとも彼女がきちんと覚えられなかったのか、大吉の入っている引き出しの番号を2つしか覚えていなくてね。

 

とはいえ、今までの『大吉が出ますように』ではなくて、そのとき覚えてた十何番と九十何番だったけかな『その2つのどちらかが出ますように』って念力使って引いたの。

そしたら出たのよ、九十何番が。

見事大吉。

それ以降は勝率を下げたくないから浅草寺ではおみくじを引かないことにしているけどね。

・・・

はい!

ここまでの話を聞いて、優秀な選手は既にノートに何かしらを書いてるはずだけど、どう?」

 

と抜き打ちの問いかけをします。

 

話に夢中で手が止まっていることは少しも悪いことではありません。

ただしこの手の話の前には、先の工業化社会時代の授業風景を引き合いに

「優秀な人間は言われたことを丸写しするようにノートを取るんじゃなくて、絶えず自分のことに置き換えて具体例を混ぜながらノートを作成するよ」

と伝えているので、生徒たちは慌てます。

 

「え、え、どういうこと?コーチはホントに超能力使えるってこと?」

という無駄口などでざわつきますが、何かしらをノートに記せている選手はほぼいません。

 

「まあ、今のはちょっと抽象度が高かったな。

次は何を言いたいのか比較的わかりやすいと思う。

 

これは君らの先輩のリョウタ(仮名)が一年生のころ、学校の授業態度が良くないということで教科の先生から(顧問の先生の)監督に言いつけが入ったときに、それについて俺とリョウタで話したことだ。

 

リョウタいわく「その授業に重要性を感じない」ということだったけど、まあ、言い訳だな。

で、俺のところに回ってくるまで監督にはさんざん説教されただろうから、俺のところでは説教はやめて、こう聞いたわけだ。

『リョウタんちから学校まで郵便ポストっていくつある?』

って。

そしたら

『いや、一個もありません』

って。

 

あいつ、入学してからずっと片道10キロくらいある道を自転車通学してるのね。

で、10キロの道のりに一つもポストが無いわけないだろうと思って

『じゃあ、今日の帰りか明日学校に来るとき注意して探してみて』

って頼んで、実際翌日になったら

『ポスト、2つありました』

って。

 

はい、優秀な選手は今の話で何が言いたいのかもう分ってるぞ。

もうみんな、ノートに何かしら書けているよな」

 

みんな真面目に話を聞きこんでいるので、当然手は止まっています。

お約束のように慌ててまたざわつきます。

 

この話は心理学の有名な「時刻を確認するために何度も見てきた自分の腕時計の絵を、みんな描くことができない。一方デザインを細かくチェックさせると今度は時刻を覚えていない」という話をアレンジしたものですが、ここでは選手たちが話し合っている時間を少し待ってあげます。

 

ここでも筆が進まなかったら3つ目の話です。

これは例え話というより答そのものです。

 

「これもみんなの先輩の、今度はコウタの話だけど、前回俺がスペインから戻ってきて、知らぬ間に成長したなあ、と思った代表格でさ、コウタ。

で、聞いてみたの。『俺がいない間に何か新しく始めたことある?』って。

 

そしたら『新しく始めたというよりは、サッカーノートに必ず今日教わったことをきちんと書こうと思いながら練習に入るようになって、そうすると、コーチたちの言うことをすごく覚えようって感じになって、以前より集中して聞くようになったんです』って。

 

はい。これでもう何が言いたいか分かったよね」

お約束のざわつきタイムです。

時間を上げてからまとめの「質疑応答」に入ります。

 

「そもそも最初の質問覚えてる?」

「えーと、サッカーノートを書く理由」

「サッカーノートのメリット」

「OK、覚えてるね。じゃあ、答えは何?」

「うーん、コーチの言ったことをきちんと書くため」

勘の鈍い選手はこう答えてしまいます。

 

「それじゃあ、最初の話に逆戻りだ。それ自体ももちろん悪くないんだけど、じゃあもうちょっと噛み砕いて聞いてみよう。コウタはコーチが教えていることを書いているの?それとも書くためにコーチに教わっているの?」

まるで禅問答のようです。

 

「お笑い芸人がネタ帳を普段から持ち歩いて、笑いのネタになりそうなことを探しているって話を聞いたことない?

あれって芸人さんの周りだけたまたま面白いことが起きてるってことじゃなくて、普通の人が素通りしそうなことでも、常にアンテナを張っている芸人さんのセンサーには引っかかって、それが笑いとしてネタ帳に記録されているってことだよ。

 

コウタの話もこれに通じるところがない?

お笑い芸人のネタ帳がコウタにとってのサッカーノートだ。

サッカーノートを書くメリットは何?

もうちょっと言葉を変えようか、サッカーノートを書くことによってコウタはどうなった?」

 

ここら辺で大体の選手は分かってきます。

 

「アンテナを張るようになった」

「何に対して?」

「その日のサッカーノートに書くこと」

「具体的には?いや、逆だな、もうちょっと抽象度を上げよう。サッカーノートに書くことって何?」

「新しく教わったこと」

「だけではない」

「ためになったこと」

「それだ」

 

「じゃあ、何のためになったこと?抽象度をもっと上げていいよ。そもそもの書く理由だ」

「あ、目標達成のために役立つこと」

 

ここで伝えたいのは芸人さんのネタ帳しかりサッカー選手のサッカーノートしかり、成功のためのヒントを受動的に手に入れるのではなく、「書かなくてはいけないから」という設定を作ることによって、先回りして(準備して)その成功のためのヒントを見つけにいくことの重要性です。

 

おみくじに関しても、もし私が本当に念力を使えるのだとしたら、引き出しの前に棒というクッションが一つ噛まされている状況ではただ漠然と「大吉が出ますように」と念じるよりは、大吉の入っている引き出しの番号が書かれた棒を出せるように念力を送った方が効果的です。

 

通学路をただの風景と捉えている限りはただの風景であり続けますが、ひとたびポストのような捜索対象を持てば、それをその風景の中から見つけ出すことができます。

授業も同様、その中に自らが重要性を探す努力をするかしないかで、その授業に感じられる重要性が変わってきます。

 

この考えを日報/日誌にも活用して、私は「目標を達成するためのカギとなった言葉や現象」という項目を設けていますが、冒頭で申し上げたとおり最も労力をかける項目であります。

 

というのも一日の最後に日報/日誌を書くにあたって、一日の最後であるがゆえに、日中に思いついた/出会った「目標達成のカギ」を忘れがちになるからです。

 

私には尊敬すべき教え子が何人もいますが、彼らもやはり同じ感想を持っているらしく、その優秀な彼らは忘れる前にメモを取ろうと、芸人さんのネタ帳のように小さなメモ帳を常に持ち歩いているとのことです。

 

私の場合は何度も同じことを試みはしましたが、やはりパッとノートが出てこない非優秀さが発揮されたので、今ではあきらめて一日の終わりに必死に「カギ」思い出している有様です。

 

ところで指導対象者のいる方にとって、これをどのタイミングで彼らにやらせるかは注意が必要です。前回の記事で伝えたとおり「書く」ことの最初の、そして一番の目的は自己肯定感を上げることです。

みんながみんなメモ帳を持ち歩いて成功のヒントを常に探し続けて、見つかったときにはパッと記せるタイプならばいいのですが、私のようなタイプもいます。

 

そういったタイプに「書く」ことが習慣化される前から難易度の高いお題を与えてしまうと、それがストレスになって「書く」ことをやめてしまうか、続いたとしても日誌のための日誌になってしまいがちです。

 

具体的に言うと

「目標達成のためのヒントが毎日は見つからないので日誌を書くときにYoutubeで名言集なんかを見て、ためになる言葉を探しています」

という選手がいました。

これでは本末転倒です。

 

日誌を「書くために探そう」という働きかけ、動機付けの道具にしたいのであって、日誌の空欄を埋めることそのものを目標にしてはいけません。

 

重要度が高いものだけに選手にもやってほしい、でも難易度が高いのでエンジンがかかる(「書く」ことが習慣化される)までは我慢、というジレンマと闘わなくてはいけない、指導に神経を遣う案件です。

 

(つづく)

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