指導者の特徴

 

 

2009年から2012年までの約3年間、私はロンドンでセミプロクラブのユース世代を教えるかたわら、ジュニア世代を週一のボランティアで指導し、またFA(イングランドサッカー協会)が提供するいくつかの指導者資格の長期コースに参加しました。

そのうちの一つ、UEFA Bのコースでは、何よりもまず指導者自身がサッカーというものを理解し、選手に伝え、プレー中の選手の理解違いを瞬時に見抜き、再現して(これがみんな苦手です)それを正して成長させることが重要だと講師たちは伝えていました。

試験の合否(合格者は受講者全体の5~10%)は、講師のレクチャーと他のコーチの実技演習への貢献度やリーダーシップといった人間性とは関係なく、本人の実技試験その本番でいかに選手たちを課題に沿って成長させたかにおいてのみ評価されます。

「君の選手たちは実によくモチベートされていた」
「君自身の熱心さも素晴らしかった」
「君のセッションは非常に活気に満ちていた」

これらはもちろんポジティブな評価ではありますが合否の判定に直接は関わりません。
各受講者に許された45分という持ち時間の中で、繰り返しになりますが、いかに選手の理解が深まり、選手、チームのプレーが向上したかにおいてのみ合否の判断が下されるということです。

試験は査定を受ける受講者が、他の受講者達の中から選手役として各ポジションに「適役」をピックアップし、彼らを指導するというスタイルで一人ずつ順番に行われます。

しかし中には「適役」として選抜されたにもかかわらず、来たる自分の番のことで不安がいっぱいで、あるいは既に済んだ自分の試験に対する後悔の念がいっぱいで、選手としてのプレーに身が入らず、指導者役のその受講者にとっては大きな誤算になってしまっているなんてことも多々ありました。

というわけで、他の受講者の実技試験へのプレーヤーとしての貢献度が低かったにもかかわらず、自分の試験だけは良く出来ていて合格したなんていう受講者が出ると、その結果に対しては大勢から不満が出るのが自然な成り行きでしたが、実は私はこのFAの査定基準に対して清々しさというか公平さのようなものを感じていました。

ところで私はイギリスから帰国した2012年から2019年の咋シーズンまで、途中大学サッカーやアイルランドのクラブに籍を置いたものの、延べ6シーズンほど日本の高校生にサッカーを教えていました。

子どもに対する体罰が刑事罰になるイギリスの指導現場に身を置いた者として、初めて日本の高校のサッカー部に足を踏み入れたときにはその組織風土に戸惑いを覚えました。

ヨーロッパに被れているわけではないのですが、現地でサッカーを「学術」として学んできた私はいわゆる「根性論」というものは日本でもとっくに廃れていて、昔話かただのジョークくらいでしか21世紀の教育現場には存在しないものだと思っていたのです。

現実は違いました。
物理的な体罰こそなかったものの「試合に負けたら」などの理由での因果の噛み合わない罰則はありました。
競技の優劣によってではなく学年による上下関係もありました。
(現場の皆さんの努力の賜物でしょう、今ではずいぶん良い方向へ変わっていると思いますが。)

根性という単語は現代のスポーツ指導の現場では「気持ち」や「モチベーション」という言葉に置き換えられてクッションされた感がありますが、いずれにしても「それが大事なのは何となく分かってはいるがしっかりと落とし込んでいない」思考停止の免罪符となる不思議な機能を持つワードとして日本のスポーツ界には長いこと居座っているような気がします。

いえ、スポーツ界のみならず、労働の現場も含めて日本全体に蔓延していると思っています。

と、こういう書き方をすると精神論に対してネガティブな感情があるように受け取られてしまいそうですが、実は私はこの精神論自体を否定はしていません。先に答えを言ってしまうと、もちろん体罰やパワハラは論外ですが、むしろ推奨しています。

「気持ち」や「モチベーション」の正体をきちんと掴んでいないのに、それらのワードに頼りすぎてしまう指導者がいることを少しだけ不安視しているのです。

もう少し細かく言うと、マインドセッティングやセルフモチベーティングによる集中力の獲得、生活習慣の改善による成長速度の向上等々は効果的な育成メソッドだと思っています。

実はこの、全体を包括するためにあえて抽象度をマックスに上げて言わせてもらえば、「根性」にも定義がありこれら「根性のつけ方」には方法論もあります。が、長くなるのでこの話は別の機会に。

話を戻します。

実際に自分でFAの風土に触れ、日本のスポーツ界の風土に触れ、そしてアイルランドサッカーの風土にも触れ、不得意や不勉強を放置している指導者が残念ながら洋の東西を問わず一定数いるということを私は学びました。(もちろん日本の教育界も含め、多くは尊敬できる方です)

UEFAのコースで他者への貢献度が低かった受講者が合格した。
これは本人の45分間の試験の結果を評価されてのことです。
あくまで自分の持ち時間の中のみでの査定結果であります。
実に公平であり、清々しいことです。

そして45分間だけでしか評価されていないのでその合格者が中期、長期で見れば、選手たちが言うことを聞かずに望むトレーニングを遂行できない、不優秀な指導者である可能性が隠されています。

ここを、少なくとも私が受講したUEFA Bの査定者であるイングランド人は「あくまでもライセンスを取っただけのこと」という言い回しで示唆していました。

ということはUEFAバッジホルダーに限らず、資格、職業、役割により自分を権威者だと勘違いしてしまいそうな立ち位置にいる人間は、自分はただ限られた条件をクリアした、あるいは限られた権限を与えられただけに過ぎない、ということを自覚しなくてはいけません。

自クラブに戻れば当然、長い時間をかけて選手やチームをマネージメントすることになります。
45分間のみのモチベーティングでは足りません。
論理だけでも当然足りません。

論理を語りたければ周りの人間の感情を動かせる人間であることが求められます。再びあえて言わせてもらえば、目標達成のために「根性」を用いることも求められます。
その「根性」に関して論理的な説明をしなくてもです。いや、むしろ理屈抜きの強引さが求められることも時にはあるでしょう。

理屈だけの組織は長続きしません。スポーツの現場に関して言えば存在しません。人は機械のためには本気で頑張らないし「イヤな奴」とは戦友になれないということです。

反対に人は感情だけでも長続きしません。

熱を伝える”熱い”指導者になるためには、選手を「気持ち」で動かしたいのなら、分野の得手不得手にかかわらず、指導者自身も日々勉強をして精進する決意と実行が必要であります。

学術的な理論と人間性と呼ばれるもの両方の必要性は言うまでもないことであり、論理が不勉強でマインド面だけを重視する組織は、非効率で目標達成のスピードが遅く、また暴力やパワハラなどの間違いも起きやすくなります。

つまり精神論を語るコーチとは精神論しか語れないコーチであり、故に精神論を語る資格が無い。

知識や理論しか披露できないコーチもそれしかできないが故のそのスタイルであり、故にそうする資格が無い。

と自戒しながら、まずは指導者である自分が理論を勉強し、かつ理屈抜きでも選手をモチベートできる魅力的な人間になれるように、それがそうなるための技術の獲得とその実行であったとしても、良い習慣で自分自身を成長させたいところです。

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