老害と若害

 

 

 

全ての教育の弱点は古い時代を生きた人が新しい時代を生きる人に知識や情報を与えることにあるとつくづく感じます。

 

一方、ネット上では「老害」という言葉が行き交うように、不特定の個人の集団に対する好き嫌いはその言動の中身関係なしに、それを実行した個人の年齢(世代)によって審判されている感があります。

 

おそらくその土台となる考えに

「おまえら年寄りは何もわかってないな。そんなの今の時代(あるいはこれからの時代)には通用しないんだよ」

という類の否定が、あるいはもう少し強めの「拒否」が幾分かでもあることは否めないでしょう。

 

よくある光景に、教育者や指導者の理不尽な仕打ちのせいで選手がディモチベートされたとき

「社会に出たらもっと理不尽なことはいくらでもある。そんな態度では社会では通用しない」

という意味合いの言葉でその教員自身が選手を諭している、もしくは叱咤しているものがあります。

 

この種の教育者は私にも同意を求めることもしばしばありますが、なるほど学校教員は「学校を卒業して学校に入る」とはよく言ったもので、社会経験のない当人たちの「社会に出たら」発言の矛盾を感じてしまいます。

 

そんな時は選手のいないところでこっそりと

「今の日本社会ではパワハラで訴えられますよ。逆に我々が通用しませんよ」

という旨のことを柔らかい言い回しで告げます。

 

これらは比較的過去の話で、パワハラという言葉が世に出はじめたばかりの時代の話ですが、氷河期世代の私より若い指導者からはあまり見られなかった光景です。

 

また長期休みになると市や新聞社などがスポンサーになるローカルの大会に招待されますが、大体2、3泊目あたりの夜に「懇親会」というものが開かれます。

 

各チームのスタッフが一堂に会し、親睦を深めるという名目のもと行われるものです。
だいたい翌日の試合日程の確認を済ませたら、各チーム指導者のあいさつへと移り、その後はただの飲み会になります。

 

このあいさつの時間、若い指導者たちのエネルギッシュな、あるいは心温まる、そして礼儀正しいトークを聞きもせずに自分たちのテーブルでうるさく盛り上がっているのはほぼ例外なく「老害」に該当する年齢の指導者たちです。

 

それもたいていは(実名は避けますが)全国大会に出場経験のあるいわゆる「有名校」の監督たちだったりします。

有名になって偉くなったと勘違いしてしまったのでしょうか、そもそも「偉い」と「行儀が悪い」は同義ではありませんが、彼らの「有名」は、その後に回ってきた彼らのあいさつ時の自己紹介で初めて「学校の名前くらいなら聞いたことがある」という認識ができる程度の、サッカー関係者の私にとってもその程度の「有名」であります。

 

そもそも未成年の選手たちの引率者である指導者が泊まりの仕事で飲酒するということは、万が一選手が喘息を悪化させるなどして宿泊中に死者が出た場合、仕事中に飲酒をしていたその指導者が実刑を受けるということを意味しています。

 

それを分かっていてアルコールを出す主催者側にも問題がありますが、これが日本のサッカー界の「古く」から続いている慣習です。(幸い私が所属していたサッカー部は学校自体の風土がものすごく厳しかったのと、またほとんどの指導者が私より若かったこともあり、全員ノンアルコールでやり過ごしていました)

 

もちろん全ての指導者や大会運営者がこうだというわけではありません。

きちんとデータを取ったわけではないのでバイアスがかかっているかもしれませんが、Jクラブにしろ町クラブにしろ、クラブチームの若い指導者は懇親会で飲酒をしない傾向があるように思えますし、また町クラブが主催するローカルの大会でも酒で盛り上がることなく他の指導者の方々と有意義な情報交換ができた記憶があります。

その理由は、若い彼らは社会経験があるからかもしれません。

 

ここまであえて「古い」「若い」の二元論化して先輩指導者たちを悪者扱いしました。

これだけを見るとやはり「老害」というワードを乱用して、年配者たちを陥れたくなる若者たちの気持ちも分からなくもありません。

 

が、温故知新という言葉があるように古いものから学べるものは、当たり前ですが少なくありません。

 

道徳的な話で言えば、挨拶はできないよりはできた方がいいに決まっています。

時間を守ることや礼節をわきまえることも同様です。

過去現在だけでなくおそらくこれからの未来も、人間同士が作業をする以上、これは不変の正義になるかと思います。

 

戦術的思考力、洞察力は指導者のみならず選手も、当然1980年代に比べて現在の彼らの方が遥かに優れていますが、一方で昔の選手がしなかったようなあり得ないミスを現在の選手はしがちだとも言われています。

これは日本国内だけの話ではなく、サッカー大国と言われている国でも起きている現象です。

 

質より量の力技で解決できた「徹底さ」に関しては過去の選手たちや指導者たちの方が得意であったことを示唆しています。

 

これは昔の選手に比べて現代の選手の技術が劣っているということではありません。

私は約5年のスパンで世界も日本もサッカー界全体のレベルが一つずつ上がっていると感じていますが、レベルを評価できる要素を緻密に細分化したときの、それら全ての要素を万遍なくレベルアップできているとは感じていません。

いくつかはレベルダウンしています。

 

3歩進んで2歩下がる、と似ているようで異なりますが、このジャンルを伸ばすがためにこのジャンルの成長を捨てている、という最終的な絶対数的な成功を考慮した、例えるなら個人経営店ではできない、スーパーマーケットの「今日は肉売り場をセールにして赤字を出すけどそれを餌に来店者数を増やして全体の黒字を増やす」考えのようなものです。

 

特に日本では複合的な要素を持つトレーニングスタイルが現代では好まれて多くのクラブで活用されていますが、それのせいで「ありえないようなミス」をしないための練習時間が削られてもいます。

「全体の黒字」を増やすための策でもあり犠牲でもあります。

 

全体の黒字を増やしている現代サッカーの指導者が「古い」タイプの指導者より優れている、と感じてしまうのは仕方のないこと、というより競争原理の世界では正解でもありますが、行き過ぎた合理化や論理的思考の推進が、数値化しづらい「闘争心」や「気持ち」と呼ばれるものを弱めてしまう可能性も考慮しなくてはいけません。

 

面白いもので選手のスキルにおいて「全体の黒字化」を果たした集合体のチームが古いタイプの「徹底さ」だけに長けた、感心すべきアイディアが特にないチームに敗北する光景はあるあるです。

 

闘争心や、気持ち、気合、根性というものは平等に査定ができる判断基準を作ることが難しいものだけに、サッカーを学術として捉えている勤勉な若い指導者ほどこの分野をおろそかにしがちです。

 

が、こういう分野のものこそ、それを嫌うタイプの選手にそれらの大切さを説く準備をしなくてはいけないし、また身につけさせる手段も考えなくてはいけません。

以前までの記事や書籍で何度か申し上げているとおり、心理学の用語で言い換えてあげるのも理屈な選手には効果的です。

 

かくいう私も「やたらと『気合い』という言葉を口にする(私とは別の)指導者が苦手」という愚痴を、別カテゴリーの選手からこぼされたことがあります。

その選手はその言葉を「非科学的」に感じていたようですが、科学とはそもそも世の中の多くの真実や事実の中で、我々人類が説明可能にすることができた、全体から見てほんの一部分の事象のみを指していて、私自身は「説明可能」や「理解可能」な事実のみを特別大事にしているわけではありません。

下手すると、この言葉が心理学用語に置換可能な例でも分かるように、ただ単に当人が知らない分野なだけという可能性もそもそもあります。

 

特に世の中全体がこういったものや、ストレスに対してアレルギー反応を見せている現代では、理屈抜きに何かをやらせることも大事なら、それをさらに理屈で語るような、なんだか間抜けな言葉遊びのような手法も大切かもしれません。

 

ところで、若い人が若いときに忌み嫌っていたはずの古い人に、いざ自分が年を取ってみると、なってしまっているなんてことがよくあります。

 

古代ギリシャの時代から「最近の若い者は」というセリフが使われていた歴史的事実ともつじつまが合います。

 

これが温故知新的な、例えば「精神論もやっぱり大事だよな」といったことなら構わないのですが、これが前述した行儀の悪い例のような指導者たちには、今の若い指導者たちにはぜひならないでいただきたいとものです。

 

学校教育界というのは、発表されている教員の数だけで90万人を超えています。

これだけ巨大な組織が変化するのには時間がかかります。

 

海外で英語教育を受けた人の間で有名な日本の英語教育の文法的間違いに「must」と「have to」があべこべに教えられている、というものがあります。

他にも細かい例を挙げたらキリがありませんが、私がこれを中学時代に教わってから30年もの間に、かけてもいいですがこの90万人、いや、退職した人も含めればこの何倍もの数の人の中で、確実に一人以上はその事実を知っている、海外で英語教育を受けた教員がいるはずなのに、未だにこの間違いは正されていません。

 

たった一教科の一局所的なこの「must」と「have to」だけでこの有様です。

教育界という「世界」の(良い方向への)変化のスピードがほぼ不変なら、「人間」の方が(良くない方へ)変わってしまうのは当然楽ではあるし自然の流れにも見えますが、今一度私自身も初心に返って、多くの若い人同様この流れに負けないように踏ん張りたいと思います。

 

そのためには老害になっていないか頻繁に我が身を振り返る必要がありますが、一方で自分とは相容れないオールドスタイルを見つけたときには、外国におけるテーブルマナーと同じで異文化を扱う尊重の姿勢を忘れないように心がけたいところです。

 

勘違いして「偉く」なってしまった老害に若者を尊重させるのはなかなか難しいものがあります。

がしかし、若者たちにはぜひとも古いスタイルを尊重して、そこからも勉強できるポイントを見つけてほしいと思っています。

 

これは「若いんだから我慢しろ」の上から目線ではなく「若いんだからそれをするだけの能力がある」、そして「能力が高い者にこそ義務や責任が課される」という理由からのお願いです。

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