関係の築き方

 

 

 

「最近の若者は」という枕詞が古代ギリシャの時代から使われていたというのは有名な話です。

 

当然、私がティーンエイジャーのころもこの言葉とともに若者の態度を非難されることはありましたし、これは現代でもあります。

 

現代の若者批判なら「最近の若者は覇気が無い」とか「甘やかされている」とか「個性が無い」辺りでしょうか。

定番の「だらしない」もまだまだ健在です。

 

その因果には

「最近の若者がだらしないのは最近の大人がだらしないから」

があるのは想像がつきやすく、さらには

「最近の大人がだらしないのは最近の年寄りがだらしないから」

もセットで原因と考えることも可能です。

というよりこれに尽きます。

 

私自身、謙遜抜きのマジのトーンで自己評価をしてみると、自惚れが強いというほどのことではないですが、自尊心はあり、自己肯定感も持っています。

が、それでも最近の若者より若者だったころの私の方がきちんとしているか、あるいは魅力的な人間だったかと問われたらその答えは自信を持って「No」です。

 

これは彼らと同年代だったころの私との比較だけでなく、今の私と比べても、あの頃よりかはまだ周りに気配りをできる人間になったものの、近頃の若者と比べて魅力的な人間かと問われたら、やはり答えには詰まります。

 

人の内面や言動の魅力度に対する私一個人の感想を順位で表現するのはナンセンスでもあり不躾でもありますが、私はよく、私自身が教えている対象のグループの中に自分を置いた場合、全体の中で相対的な比較をした自分の魅力度を

「中の中」

と評価します。

 

そしてこれは実際の教え子たちとの会話にも使われます。

「今年の3年生は例年以上に魅力のあるやつが多いからなあ。たぶん“中”にも入れない。下の上かな」

こんな感じです。

 

この自己評価も謙遜や駆け引き抜きの「マジ」のものですが、この理由の一つには指導者という役割柄、特に日本では指導者である私自身が「全体の中の一人」ではなく「全体の上の一人」になりやすく、ゆえにもともと少なからず私に備わっている(人に物を教える立場の人間は少なからずこの要素がありますが)Bossyな(威張りたがりな)態度が目立ちやすいというものがあります。

 

ひるがえって、例えば穏やかで闘争心をまるで感じられない、なんなら向上心すらあまり感じられない選手を見つけると、競技的な伸びしろこそ感じられないが、「社会」という広いくくりでこの選手を見た場合、むしろ世の中に必要な人間はこのようなタイプの者であって、彼らのような人間だらけになったら世界は平和になるのではないか、とすら思ってしまいます。(もちろんこの手の選手ばかりがいるわけではありませんが。)

 

競技スポーツの指導者の態度としてはある意味合いにおいていささか良くないもののように我ながら感じておりますが、私自身が持つ向上心や競争心、自律性、はたまたサッカーに関する知識はこの特定の分野においてのみ彼ら選手より優れているものであって、それよりも外の世界では彼らの方が魅力的で徳の高い人間なのではないだろうか、と思ってしまうのです。

 

仏教用語によく出てきそうなこのワード、「徳」ですが、聞いた話では親子でもこの「徳が高い・低い」が生まれながらに逆転しているということを聞いたことがあり、この手の説は無宗教の私にも納得がいきます。

 

私は過去に何千という教え子を持ち同様に何千という彼らの保護者たちと接してきましたが、尊敬できる教え子がたくさんいるのと比例するように、尊敬している親御さんたちが私にはたくさんいます。

 

その中の一人から聞いた家庭教育では、子どもにもきちんと母親に気を遣わせていて、それをしっかりと言葉で伝えている、というものがありました。

「お母さんが髪型変えたときにそれに気づいて『似合ってるね』とか『かわいいね』とか言うと言わないとではその日の夕食に差が出るよ」と伝えているそうです。

 

徳の話に戻りますが、この逆転現象はスポーツや格闘技における師弟関係にも当然あります。

 

私がロンドンから帰国してすぐに指導を始めた高校のサッカー部では、教師でもある監督が生徒でもある選手に「叱られ方」の指導をしていました。

叱られているときはただ単に返事をするだけでなく、その表情にも「すみません」という感情も出しておく、というものでした。

 

これには目下のものが目上の者を敬いなさい、というよりは気を遣いなさいという意図があり、「おまえのために言っているんだぞ」の態度よりよっぽどすがすがしく、言われている側も腑に落ちる、目から鱗の教育だと感じました。

そもそも「敬う」には少なからず「気を遣う」の要素が入っていることを明確にできた私自身の学びでもありました。

 

団体競技のスポーツチームにおいて、中学、高校世代にもなってまだチームの約束事を守れない選手、チームの体質に沿えない選手は当然どのチームにもいることと思いますが、その手の選手と彼らの態度にストレスを溜める指導者との間には

「大人は偉くて子供は偉くない」

「子供は間違えてもいいが、大人は間違えてはいけない」

といった固定観念が根っこにあるような気がします。

 

私の場合「徳」を「魅力」に変えて、割と早い段階で先ほどの「中の中」とか「下の上」の話を選手にします。

 

「つまり俺はサッカーを教えることにおいてのみ、君たちより優れているだけであって、正確に言えばこれすらそう思われているだけでの話であって、人として君たちより魅力的で我慢強くて大きな人間かといったら、別にそうでもない。さっきも言ったとおりこのグループではちょうど中の中。

この中の半分くらいよりは俺の方が神経質だし、口うるさいし、怒りっぽい。

だから俺が話をしているときは、その話を聞いて応用できるアイディアを思い浮かべているときとかは別としても、原則、俺を安心させるために俺の目を見ながら話を聞いてほしい」

 

これは

「だから先生たちや他のコーチたちを気持ちよくさせるために、俺がいないところでもきちんと挨拶をしてほしい」

「だから時間を守ってほしい」

「だから整理整頓をきちんとしてほしい」

等々いろいろなものに置き換えることができます。

 

そしていつかの記事でも書いた、私との接し方のアドバイスに繋げます。

「つまり俺との接し方としては、ちょっとわがままな妹を扱うような感じがちょうどいい。俺の気分がよくなればいい指導を君たちに提供できる。逆に言えば俺は精神面の能力が高くないから、君たちが頑張らないといい指導が提供できないということだ。

わがままな妹もそうだろ?妹の機嫌が悪いと家族のイベントが台無しになるだろ?」

 

と、同時にこちらも彼らをわがままな妹を見るような目で扱い「しょうがないなあ」と少しゆとりを持った態度で彼らに接する努力をすると、前出のお母さんが築いている家庭のように、選手たちとなかなかいい関係が築けるようになります。

 

これは論理というより経験上の話です。

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